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愛媛県議会議員の  庶民派・元気派・さわやか派  石川みのるが見て歩き、いろいろな思いを語ります。
20070901161130


 ああ、今週は格段に忙しかったですね。

 先週の土曜日は野球で倉敷泊。翌日は松山伯。次の2日は自治労の本部の大会で盛岡泊。次は自宅。その次は松山泊。

 このように野球、組合、党務と、この一週間で自宅で寝たのは1日だけでした。

 また、昨晩は松山泊だったのですが、今朝は10時から新居浜で会議があったので一度新居浜に帰り、会議が済んでまた松山に。松山の会議が済んでまた新居浜の我が家に帰宅。

 今日だけでも210㌔は走ったぞ。

 数回前のブログで日中友好協会の総会で遭遇した具体的かつ客観的な数字にショックを受けたと記しました。その数字を披露します。

 それは新居浜の住友金属鉱山別子鉱業所への中国人の強制連行の数字です。

 第1次 1944年10月18日 現地発 182人 内5人が道中で死亡。就労中94人が死亡。

 第2次 1945年1月12日 下関で受け取り、14日に着山。就労中100人の内16人死亡。

 第3次 1945年5月17日に青島で399人を引き取り、6月上旬着山。途中病死、失踪14人。就労中81人死亡。

 このように中国を出たのが681人。道中で亡くなった方に強制就労中に亡くなった191人を加えると実に208人が「殉難者」としての記録が残っています。

 そしてその慰霊祭を毎年10月1日に日中友好協会が主になってで執り行っています。

 これらの人々は自ら希望をして故郷から遠く離れた日本・新居浜で働きたいなんて思った人はおらず、まさに「強制」です。

 今でははとても考えられませんが、それを国家の名のもとに政策として行ってきたのが上記の数字です。

 過酷な労働環境のもと、満足な食事など望むべくもない状況の中で、実に3分の1の方が無念にも異国の地で命を落としていったということです。

 命をおとした方のそれぞれに親、兄弟、妻、子などがいたことは想像に難くありません。

 命を落とした方はもとより、遺族の思い、一家の大黒柱を失ったその後の遺族の生活は如何だったのか?そう思うと暗澹たる思いになります。

 日本がこのような過去を歩んできたのは紛れもない事実です。この歴史的事実に目をそらすことなく、今後にいかさなければ208柱は浮かばれないと思います。

 だからこそ、小生は人の命を大切にする政治を求め、その旗頭にならなければならないと思います。

 その基本は何と言っても日本国憲法の堅持です。
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【2007/09/01 16:11】 | 未分類
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同感です
h.manabe
別子物語「庶民から見た歴史の実話を綴る」を読む。編集された方々、蟹江さん有難う。

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同感です
別子物語「庶民から見た歴史の実話を綴る」を読む。編集された方々、蟹江さん有難う。
2007/09/05(Wed) 13:16 | URL  | h.manabe #-[ 編集]
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